■戦病死?自決?隠された死因の詳細
加藤さんはまず、曽祖父の軍人としての履歴を調べることにした。親族であれば、陸軍の場合、本籍地の自治体から軍の履歴を取り寄せることができる。
淳郎さんは昭和初期に幹部候補生として陸軍に入隊。一時、軍を離れたあと太平洋戦争で出征。最後は西部ニューギニアで「戦病死」と記されていた。
「戦犯として処刑ということもあると思っていたから。処刑じゃなくて戦病死っていうのは何か僕の中ではちょっとほっとしているところはあります」
淳郎さんとはどんな人物だったのか。瀬戸市の著名人をまとめた本『昭和八年陶都人士録』で淳郎さんが紹介されていた。淳郎さんも加藤さんと同じ真宗大谷派の僧侶。軍に入るまで仏教系の学校で学んでいた。
「生まれながらにして宗教家たるの素質ありて、慈悲の情深し」(同書より)
軍人になったあと、何を経験したのか。県がまとめた履歴を基に辿ってみた。
名古屋城に隣接する官庁街。ここに淳郎さんが入営した輜重兵第三大隊があった。輜重兵はもともと馬を使った輸送部隊で、弾薬や食料を前線に供給する役割を担っていた。
日中戦争に詳しい愛知学院大学・広中一成准教授は「軍の中で重要ではあるが、華々しさがないのもあってちょっと軽んじられている。なおかつ後方から攻撃される恐れが非常に高いので危険性もかなり高い」と説明する。
淳郎さんは10年ほど軍を離れたあと1941年9月に陸軍輜重兵学校に入校。自動車の教育を受けた。次の戦争に備え、できたばかりの学校だった。
「当校は国軍が近代作戦の特性に鑑み、切に輜重兵の重要性を痛感し、その教育訓練に一大刷新を加えんがため創設せられたる」(校長訓示)
淳郎さんが教育を終えた2か月後の1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入。淳郎さんは召集され、初めて戦場へ赴くことになった。
1942年、輜重兵の少尉として中国戦線に投入された淳郎さん。浙江(せっこう)省から江西(こうせい)省にかけて行われた浙贛(せっかん)作戦に参加した。飛行場の破壊などを目的とした浙贛作戦。戦線の拡大と洪水、伝染病によって物資の補給は困難を極めた。
広中准教授は「本来は農民たちに軍票やお金を渡して食料を買うというのが一応ルールになっているが、いちいちそのようなことはできず、浙江省と江西省は比較的田んぼがありお米がとれるところだったので、お米が貯蔵されていたらそれを奪うなどいわゆる『略奪』のような行為があった」と語る。
南方での戦況が悪化し始めると、淳郎さんは水上輸送を担う部隊に移され、ベトナムやシンガポールを経由してインドネシアで最期を迎えた。
2025年6月、加藤さんは愛知県庁を訪れた。淳郎さんの履歴のもとになった資料を閲覧するためだ。終戦直後、国の命令で軍に関する文書の多くが焼却された中、淳郎さんの場合、複数の記録が残っていた。
愛知県が履歴を作る際、死因の根拠にした「死亡報告書」。加藤さんは、死因に関する別の資料に目をとめた。
「ここだと10月30日に『戦病死』となっているのが、自殺のところに丸があって…」
自殺の経緯が書かれているであろう箇所は、県の判断で隠されていた。県の職員は「ご親族であってもあくまでご本人様ではな別の方なのでここまではというギリギリのところで今回整理をさせてもらっています」と説明。
加藤さんが「連れ合いや娘でもだめだったということですね」と問うと、職員は「そうですね。血の濃さが遠いから近いからといったことではなく…」と答えた。さらにスタッフが「開示請求などをしても出せない?」と尋ねると、職員は「多分ゼロ回答だと思います」と返した。
曽祖父の「自決」の真相
