「もうプレーすることはない。(引退表明の)記者会見もしない」、「僕と家族をそっとしておいてくれ。それだけが今の願いだ」
 
 7月4日、ブラジルの有力ニュース電子版『UOL』が粘り強い取材の末、直接のインタビューこそ叶わなかったものの、自筆のメッセージを掲載した。
 
 2020年8月以降、フットボール以外の理由によりピッチに立てずにいた“元天才ドリブラー”のロビーニョ(38歳)が、静かに引退を表明した。
 
 2000年代のブラジルにおいて、ロビーニョは同年代の頃のネイマールよりも大きな存在だった。そのキャリアの前半は、プロ選手を目指すすべてのブラジルの少年たちの夢をそっくりそのまま実現したものだった。
 
 サントス郊外で生まれ、6歳で地元のフットサルチームに入って技術を磨いた。かぼそい男の子が、魔法のようなドリブルで相手チームの全員を易々と抜き去っていく。地元では「天才少年現わる」と評判になり、大人たちがそのプレーを一目見ようと集まった。
 
 12歳でサントスのアカデミーに入団。ペレと背格好、プレースタイルが瓜二つだったこともあり、「ノーヴォ・ペレ」(新しいペレ)と呼ばれた。
 
 少年の噂を聞いたキング・ペレが練習場へやってきて、「これまで『ノーヴォ・ペレ』と呼ばれた少年は何人もいたが、この子は本物だ」と驚嘆。「特大のジョイア(宝石)だから、大事に育ててくれ」とクラブ関係者に伝えた。
 
 18歳でトップチームに昇格し、圧倒的なスピードと驚異的なテクニックで左サイドを蹂躙。超高速で繰り出すまたぎフェイントにマーカーは翻弄され、尻もちをつく。この光景にスタンドの観衆は歓喜し、小躍りして喜んだ。
 
 童顔で笑顔が愛らしいが、ピッチに立つと相手チームにとっては悪魔のような存在。「ペダラーダ、ロビーニョ」(またげ、ロビーニョ)が流行語になり、ブラジル中の路上や広場で少年たちがこう叫びながらペダラーダを繰り出した。
 
 03年にブラジル代表に初招集され、2年後の05年夏、移籍金2400万ユーロ(約33億6000万円)という当時としては破格の金額で「白い巨人」レアル・マドリーと5年契約を結ぶ。与えられた背番号は「10」。絵にかいたようなサクセス・ストーリーだった。「ここからさらにとてつもないキャリアを築く」と、誰もが予想した。

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 マドリーでもすぐにレギュラーを掴み、06年にはブラジル代表の一員としてドイツ・ワールドカップ(W杯)に出場した(4試合で無得点)。
 
 06-07シーズンからのラ・リーガ連覇にも大きく貢献したロビーニョ。しかし、07-08シーズン終了後、クリスチアーノ・ロナウド(当時マンチェスター・ユナイテッド)とのトレードを打診されたことに怒り、移籍を志願。そして08年9月1日、夏のマーケットの期限最終日にマンチェスター・シティに渡るのだ。移籍金は4300万ユーロ(約60億円)。選手としての価値は、マドリー入団時より上がっていた。
 
 当時24歳。今にして思えば、ここが選手としての最高到達点だった。
 
 シティでは、最初のシーズンこそ力を示してプレミアリーグで14得点をマークする。しかし、2年目の09-10シーズンは左足首の故障もあってわずか10試合の出場に留まり、ノーゴールに終わった。
 
 その背景には、09年1月の私的なトラブルがあった。リーズ市内で若い女性に性的暴行を加えた容疑で拘束され、保釈金を払って釈放された一件だ。その後、証拠不十分で訴追を免れたとはいえ、本来ならこの事件を教訓として私生活を改めるべきだった。
 
 10年W杯にはレギュラーとして臨み、4試合に先発して2得点を挙げたロビーニョは、その年の8月末、ACミランと4年契約を結ぶ。1年目の10-11シーズンは本領を発揮し、スクデット獲得に貢献した。だが、以降は故障も重なり出番もゴールも激減した。
 
 そして13年1月、人生とキャリアを大きく暗転させる事件を起こしてしまう。ブラジル人の友人5人と一緒にミラノ市内のナイトクラブへ繰り出し、そこで知り合った23歳のアルバニア人女性をブラジル人ミュージシャンの楽屋へ連れ込み、集団で性的暴行を加えたとして、地元警察へ被害届を出されたのである。
 
 ロビーニョは「合意の上」と主張しながらも、14年、イタリアから逃げるようにして古巣サントスへ期限付き移籍。15年以降は中国、ブラジル、トルコのクラブを渡り歩いた。
 
 17年11月、イタリアの裁判所(第一審)が13年の事件に対して禁固9年の実刑判決を言い渡す。控訴したロビーニョは、トルコのクラブでプレーを続けた。
 
 20年8月にはトルコのバシャクシェヒルを退団して帰国し、10月にまたしてもサントスへ復帰。しかし、性的暴行の容疑者であるかつてのヒーローに世論は厳しかった。女性サポーター、スポンサーからサントスへ抗議が殺到。わずか6日で契約は解消された。
 
 同年12月、イタリアでの第二審は第一審の判決を踏襲。そして今年1月、イタリア最高裁が禁固9年と罰金6万ユーロ(約840万円)を言い渡し、刑が確定した。
 
 イタリア司法当局は、ロビーニョの身柄の引き渡しをブラジル政府へ要求。しかし、ブラジルの憲法はブラジル生まれの自国籍者の外国への引き渡しを認めていない。このため、イタリア司法当局はブラジル政府に自国内での逮捕と服役を求めている。
 
 22年7月初旬の時点でこの要請はまだ実現していないが、「いつ逮捕、収監されてもおかしくない」(国際法専門家)状況にあり、ロビーニョはサントス郊外の自宅で息を潜めて生活している。
 
 ロビーニョのキャリアは、周囲からの大きな期待に十分応えたとは言い難い。それでも、欧州の錚々たるビッグクラブでプレーし、ブラジル代表の一員として二度のW杯に出場。クラブシーンでは公式戦550試合に出場して150得点・90アシスト、代表では100試合に出場して28得点を記録している。非凡な数字と言っていい。だが、私生活上の問題で犯罪者の烙印を押され、これが彼の人生とキャリアをぶち壊してしまった。
 
 ブラジルには、素晴らしい才能を持ちながら、ピッチ外のトラブルで才能を生かしきれなかった選手が少なくない。ロビーニョは、その代表的な例となってしまった。
 
 まだ38歳。すべてが終わったわけではない。罪を償い、更生して、第二の人生を歩んでもらいたい。かつてそのプレーに驚嘆し、胸躍らせた者の一人として、心からそう願っている。
 
文●沢田啓明
 
【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。