父の日は、国によって日にちが異なる。
 
 日本を含む世界の大多数の国は、6月の第三日曜日だ。しかし、ブラジルは「5月に母の日、6月に恋人の日、10月に子供の日、12月にクリスマスがあり、消費者にプレゼントを買わせるには8月が好都合」という極めて商業的な理由から、8月の第二日曜日となっている。
 
 今年は、8月14日だった。この日、キング・ペレが自身のツイッターに父ドンジーニョさんの思い出を綴った。
 
「父は私の最大のサポーターにしてコーチだった。その彼に、私は人生で最も重要な約束をした。1950年のワールドカップ(W杯)でブラジルが優勝を逃したとき、9歳だった私は父が悔し泣きするのを見て、『いつか僕がお父さんのためにW杯で優勝するからね』と言って慰めたのだ。父の日に感謝を!」
 
 ご存知のように、ペレは約束を果たしたばかりか、“3倍返し”をやってのけた。17歳で出場した1958年のW杯でブラジルに初優勝をもたらすと、62年と70年の大会も制覇。3度の優勝を達成したのである。
 
 ペレの父ドンジーニョ(通称)のことは、日本ではあまり知られていないのではないか。フルネームは、ジョアン・ラモス・ド・ナシメント。1917年10月2日、ブラジル南部ミナスジェライス州の小さな町で生まれ、15歳で名門アトレチコ・ミネイロのアカデミーに入団した。
 
 身長は183センチと当時としては非常に大柄で(ペレは173センチ)、ポジションはCF。しかしトップチームには昇格できず、19歳を過ぎてから州内のスモールクラブを転々とする。
 
 1940年、22歳でトレス・コラソンエス(「3つの心臓」の意)という小都市のクラブ(アトレチコTC)へ入団。この町に住んでいたセレステという女性と知り合い、結婚した。
 
 この年の4月、アトレチコ・ミネイロへ復帰。「ついにチャンスが到来した」と張り切った。しかし、練習試合でCBと激突。膝に大怪我を負い、公式戦のピッチに一度も立つことなく戦力外通告を受けた。
 
 やむなくトレス・コラソンエスへ戻り、この町の陸軍で服役しながら時折、アトレチコTCでプレーした。
 
 そして1940年10月、セレステとの間に子供が誕生する。それがエジソン・アランテス・ド・ナシメント、そうペレだった。
 
「私が人一倍スタミナがあるのは、心臓が3つあるからさ」というのが、ペレの定番のジョークである。
 
 この頃、ドンジーニョはある試合でヘディングだけで5ゴールを決めた。そんな父親を「運がなかったが、とてもいい選手だった」と評価するペレは、「この記録だけは私も達成できなかった」と脱帽している。
 
 ペレが4歳になる直前、父親がサンパウロ州の中都市バウルーの市役所で働きながら地元のセミプロチームでプレーすることになり、一家で引っ越した。
 
 20世紀前半以降に大勢の日本人が農業移住したバウルーは、日本人や日系人が多く住む町だった。日系人が運営するアマチュアのフットボールクラブもあり、時折、クラブから依頼を受けてドンジーニョが少年チームを教えた。当時、指導を受けた日系人は、「教え方がとても上手で、みんなメキメキと上達した」と述懐している。
 
 少年ペレもドンジーニョからフットボールの基本を教わり、地元のアマチュアチームでプレーした。ペレの家の近所に住んでいた日系人の友人は、「自宅でもドンジーニョがキックやヘディングの反復練習をさせていた」と証言する。
 
 ペレ一家がバウルーに住んでいた1950年、ブラジルは第二次世界大戦後初となるW杯を誘致。この大会のために国は、威信を懸けて20万人収容の巨大なマラカナン・スタジアムを建設した。
 
 自国開催のW杯に臨んだブラジルは、第2戦でスイスと引き分けるなどやや苦戦したが、グループリーグを首位で突破。4か国による決勝リーグに勝ち上がる。
 
 決勝リーグでは攻撃力が爆発し、スウェーデンを7-1、スペインを6-1と粉砕。最終戦で宿敵ウルグアイと引き分け以上なら悲願の初優勝という極めて有利な状況だった。
 
 試合が行なわれたマラカナンは、20万人を超える大観衆で埋め尽くされた。前半を0-0で折り返し、迎えた後半開始直後、ブラジルはFWフリアッサが右サイドからシュートを決めて先制。スタンドは早くも勝利と優勝を確信し、お祭り騒ぎとなった。
 
 しかし、百戦錬磨のウルグアイは冷静だった。66分、快足右ウイングのギッジャがサイドを突破してクロスを入れ、ニアサイドへ詰めていたスキアフィーノが蹴り込んで同点。さらに79分、またしてもギッジャが右サイドを引きちぎる。1点目をアシストした位置とほぼ同じところまでボールを持ち込み、再びクロスを入れるとみせかけてシュート。GKバルボーザはクロスを予想して一歩前へステップしたため、完全に逆を突かれる。シュートはニアサイドの極めて狭いスペースをくぐり抜けてゴールに吸い込まれた。
 
 悪夢のような光景に、大騒ぎしていたスタンドは静まり返る。その後、ブラジルは必死に反撃したが、ウルグアイの堅守を破ることができない。
 
 試合はそのままタイムアップ。ブラジルはまさかの逆転負けを喫したのだった。前回大会の3位を上回る準優勝という史上最高の成績だが、そこに喜びはなく、悔しさと屈辱だけが残った。
 
 この試合はブラジルとウルグアイの両国で「マラカナッソ」と呼ばれているが、意味合いは真逆だ。ブラジル人にとっては「マラカナンの悲劇」、ウルグアイ人にとっては「マラカナンの奇跡」である。
 
 当時、ブラジルではまだテレビ放送が開始されておらず、全国津々浦々で人々はラジオ中継を聞きながら一喜一憂していた。
 
 まだ現役の選手だったドンジーニョもラジオにかじりつき、懸命にブラジルを応援していた。敗戦を知ると、うなだれ、号泣した。
 
 おそらく、このとき悲嘆にくれる両親や兄弟の姿を見て、「大きくなったら僕がW杯で優勝するよ」と約束した少年は、ブラジル各地に大勢いたはずだ。だがその約束を、しかも3度も果たした有言実行のフットボーラーは、間違いなくペレだけだ。
 
 1952年に現役を引退したドンジーニョは、息子ペレのサントスとブラジル代表での神がかり的な活躍をすべて見届けてから、1996年、79歳で亡くなった。そして、ドンジーニョの自慢の息子は、10月23日で82歳になる。
 
 この二人に限らず、ブラジルではフットボールが常に人々の生活と人生に深く介在し、親子関係においても絆を強める重要なツールであり続けてきた。このことは、未来永劫、変わりそうにない。

【本人提供】「サッカーの王様」ペレの秘蔵写真!貴重なGK姿、奥様と笑顔も
 
文●沢田啓明
 
【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。