4年に一度のサッカーの祭典、FIFAワールドカップ・カタール2022が11月20日に開幕。今大会では、なんと全64試合をABEMAが無料生中継します。ならばNumberも一緒に大会を盛り上げようということで、「Number渋谷編集室 with ABEMA」を期間限定で開設し、従来のNumberとは一味違ったコンテンツをNumberWebを通じて配信。渋谷編集室のスペシャル編集メンバーで、フォトグラファーの近藤篤さんによるW杯フォトエッセイ「on that moment」をお届けします。

 2014年6月12日の午後、アレーナ・サンパウロのピッチ中央に設置されたサッカーボール型の特設舞台上では、ピットブル、ジェニファー・ロペス、そしてクラウディア・レイチの三人が大会のテーマソング「we are one」を歌い、満員のスタンドを盛り上げていた。

 僕はピッチサイドでシャッターを押しながら、隣に座ったモロッコ人のカメラマンに、四年前のテーマソングの方が良かったね、と話しかけた。彼はイエスともノーとも答えず、ただ曖昧に微笑んだが、たぶん2010年南アフリカ大会でシャキーラが歌った「WakaWaka」のことはなにも知らないようだった。

 44歳のジェニファー・ロペスが、とても44歳とは思えないキレッキレのダンスを見せてオープニングセレモニーは無事終了し、およそ1時間後の午後5時、日本人として初めてW杯開幕戦をさばくこととなった西村雄一が、ブラジル対クロアチアのキックオフを告げる笛を吹いた。

W杯から失われたもの

 僕にはこれで4度目のW杯だった。メキシコ、イタリア、日韓、そしてブラジル。でも実を言うと、2002年のW杯がおわったとき、もうW杯を現地まで撮りに行くことはないだろうな、と思っていた。サッカーそのものに興味を失ったわけではない。ただ、この四年に一度のサッカーの祭典は、かつて自分が憧れていたそれとはいつのまにかなにかがちがってきていた。

 たぶん1994年のアメリカ大会、そして次のフランス大会あたりからだと思う。FIFAはW杯というサッカーのお祭りにおけるビジネスの側面をより強化し始めた。参加国を増やし、観客を増やし、一つの国の試合会場を一都市に固定しない。それによってさらなる人の移動を促し、観客はスタジアムの中でも外でも大量に消費してゆく。かつては一般大衆のものだったはずのW杯が、一般大衆にとってはちょっとばかり高すぎるものになった。近所の神社の縁日で、毎年参道で買うたまごカステラの値段がいつの間にか一皿300円から600円になっていた、みたいなかんじだ。

 もちろんFIFAにはFIFAの、たまごカステラ屋にはたまごカステラ屋の事情がある。だからそれは間違っていることではない。でも、たまごカステラが600円になってしまうと、そこに集まる人たちも変わってしまって、僕はどちらかというと一皿300円だった頃に集まってきていた人たちを眺めたり撮ったりするのが好きだった、ということだ。

 それが、W杯はもういいかな、と距離をとり始めた理由だった。

聖地での開催と新たな日本サッカー

 ところが、2007年10月、FIFAは2014年のW杯をブラジルで開催することに決める。

 1950年代から80年代にサッカーという魔法にかかってしまった人間にとって、ブラジルという大地はサッカーの「聖地」だ。世間では一般的にサッカーの母国は「イギリス」ということになっているが、産みの母がイングランド人ならば、育ての親はブラジル人だ。仮にサッカー自身に「君のお母さんは誰?」と聞いても「ブラジルです!」と答えるだろうと思う。それくらい、サッカーというスポーツ、あるいは文化は特に1960年代以降、ブラジルという国と共に魅力を増していった。

 そのブラジルでW杯が開催される!

 加えて、僕の人生にとってのブラジルは、アルゼンチンで暮らしていた20代の頃、何度も何度も通い倒した土地でもある。今考えると信じられないことだが、当時お金のなかった僕はブエノスアイレスから長距離バスに乗り、およそ32時間かけてサンパウロやリオデジャネイロでのサッカーの試合を撮影しに出かけていた。三泊四日の取材で車中二泊、そんな旅を繰り返した。

 当時世界最大のスタジアム(収容人員20万人!)だったマラカナンスタジアム、やたらとサッカーの上手な麻薬の売人、日本からやってきてまだ間もなかったカズという名の少年、あるいはサントスの浜辺でビーチサッカーをやりすぎて足の裏の皮がべろっとむけたこと。そんな素敵な思い出だらけの国でW杯が開催される、これはもう参加しないわけにはいかない。

コルコバートの丘から望むマラカナンスタジアム ©Atsushi Kondo
コルコバートの丘から望むマラカナンスタジアム ©Atsushi Kondo

 あともう一つ、僕がブラジルでのW杯に参戦したかった理由は、自分の国の代表チームにあった。

 本田圭佑という異端児の出現とともに始まった日本サッカーの新たなムーブメントは、この大会で一つのピークを迎えそうな気がしていた。イタリア人監督ザッケローニが目指すサッカーは日本人に向いているように思えたし、見ていておもしろいサッカーでもあった。

 弱者が強者を倒そうとする時、一番簡単なのは牡蠣のように黙々と自軍のゴールを守り、一瞬の隙をついてカウンターを決めるかセットプレーを決めるかだ。実際そういうスタイルに大会直前に変更したことで、南アフリカ大会の日本代表は番狂わせを起こすことができていた。

 しかしザッケローニはそうではない道を選択し、4年という時間をかけて面白いチームを作り上げた。本田圭佑というビッグマウスを旗頭として、両サイドバックには内田篤人と長友佑都、中盤には長谷部誠、遠藤保仁、香川真司、清武弘嗣、前線には岡崎慎司、大久保嘉人、大迫勇也、柿谷曜一朗。日本サッカーの新しい才能がぎっしりと詰まったチームが描くサクセスストーリーを現場で撮ってみたかった。

 日本代表のことから先に話そう。

 サッカーの世界ではものごとは往々にして、願っている、あるいは予想しているのとは反対の方向へとながれてゆく。

黄金世代の旅の終わり

 雨のレシーフェでの第一戦、相手はコートジボワールだった。相手チームのエース、ディディエ・ドログバはベンチからスタートした。日本は前半、本田の見事なシュートで先制するが、時間の経過と共に徐々に押し込まれる時間がふえてゆく。そして後半、コートジボワールがドログバを交代で投入した瞬間から、ピッチの上の空気感ががらりとかわり、そこから日本は立て続けに2失点し、1−2で大事な初戦を落としてしまった。

 5日後、日本代表はレシーフェと同じくブラジル東北部の海岸線に位置するナタールの街で、ギリシア代表と対戦した。実力的にはほぼ互角、堅守速攻に徹する相手を日本のポゼッションサッカーが圧倒できれば、予選リーグ突破の道はまだ残るはずだった。

 前半38分、ギリシアは中盤の守備の要カツラニスを2枚目のイエローカードで早くも失ってしまう。一人少ないギリシアに猛然と襲いかかる日本。しかしながら、試合終了までに残された60分近くの時間を、日本はうまく使えなかった。何度もチャンスを作るものの、結局決めきれず試合は0−0で終了。ピッチ上でしゃがみこむ選手たちを覆う失望感は、日本代表の旅はほぼここで終わったことを告げているように見えた。

 そこからさらに5日後、ミナス州のベロオリゾンチ経由で内陸部の都市クイアバに入った日本は、前の試合から先発を8人変えてきたコロンビアに1−4で敗れる。前半はなんとか食い下がったものの、後半に相手のスーパーエース、ハメス・ロドリゲスが登場すると、再び第一戦のドログバ登場のときと同じように、まるで魔法にかかったか、あるいは魔法が解けたかのように、日本代表の守備は崩れ去った。

「W杯優勝」を目標にし続けた本田のブラジルでの戦いは、1勝も挙げられぬまま終わった ©Gatty Images
「W杯優勝」を目標にし続けた本田のブラジルでの戦いは、1勝も挙げられぬまま終わった ©Gatty Images

 1分2敗、それがサムライブルーの残した数字だった。そしてその数字がこの4年間ずっと追い求めてきたものとどれだけ違うのか、試合終了後、キャプテンとしてチームを鼓舞し続けてきた長谷部誠の瞳に浮かんだ涙は物語っていた。ぐっと目を閉じたままの本田圭佑の横顔をファインダー越しに眺めていると、こちらの心臓まで痛くなった。

 日本代表をめぐる冒険が終わると、僕にとって4度目のW杯は良い意味でも悪い意味でもただの気楽なサッカーのお祭りになった。

 バスとタクシーと飛行機を乗り継いで、ベロオリゾンチでのブラジル対チリ戦を撮り、ブラジリアでのフランス対ナイジェリア戦を撮り、夜のバスターミナルのテレビでドイツがアルジェリアに危うく追いつかれそうになるところを見て、翌日はアルゼンチンとスイスの試合をサンパウロで撮った。試合のない日は街や海辺に出かけ、シュラスコを食べ、水着姿の女の子を眺め、ジョギングをし、砂の上でボールを追いかける男の子たちを撮った。

ビーチでも街なかでも、ブラジルはどこに行ってもサッカーの匂いがした ©Atsushi Kondo
ビーチでも街なかでも、ブラジルはどこに行ってもサッカーの匂いがした ©Atsushi Kondo

 あの巨大なマラカナンが6万人だか7万人だか収容のただのスタジアムになっていたとか、ネイマールを怪我で欠いたブラジルが準決勝でドイツ相手に1−7で惨殺されるとか、スタンドでの鳴り物の演奏は一切禁止とか、およそブラジルらしくない出来事はいくつかあったけれど、まあそれでもやっぱり、ブラジルはブラジルだった。日本にいては到底感じられないようなサッカーの匂いがいつも身の回りに漂っていて、ああ自分はサッカーが好きなんだなあ、ということを毎日再認識させてくれた。

いつもそこにいるドイツ

 2014年7月13日、僕にとって4度目のW杯はアルゼンチン対ドイツの決勝戦で終了する。

 面白いことに、僕が現地で直接見ることのできた4回のワールドカップのうち、なんと決勝カードは3回もアルゼンチン対ドイツだった。1度目はメキシコシティのアステカで、2度目はローマのオリンピコで、そして3度目はリオデジャネイロのマラカナンで(さらに付け加えると、横浜での決勝はブラジル対ドイツである。ドイツおそるべし!)。

 試合は90分が終わって0−0、延長後半にゲッツェという若いFWが決めた1点をドイツが守り切り、西ドイツ時代も含めると4度目の優勝を果たした。白いレプリカに身を包んでスタンドを埋めたドイツサポーターは大いに盛り上がったものの、試合後の表彰式で僕が追いかけていたのは敗れたアルゼンチンのエース、リオネル・メッシの姿だった。勝って喜ぶ選手たちの写真も悪くないが、写真の醍醐味は負けても絵になる選手を撮るところにある。

 今改めて8年前に撮った写真を眺め直してみると、たまごカステラが600円になったのはあいかわらず納得できないけれど、やっぱりブラジルのW杯は行って良かったなと思うし、今回のカタールも行くべきだったかな、と少し後悔している。

自身3回目のW杯も決勝で敗れたメッシは大会最優秀選手のゴールデンボールを受賞した ©Atsushi Kondo
自身3回目のW杯も決勝で敗れたメッシは大会最優秀選手のゴールデンボールを受賞した ©Atsushi Kondo