●時代に乗り遅れたドイツ代表の変革
国や地域ごとにサッカーの歴史があり、その国ならではのプレースタイルが存在することも多い。現在開催されているFIFAワールドカップカタールに出場する32ヶ国+αの「プレースタイル」に焦点を当て、その変遷に迫った『フットボール代表プレースタイル図鑑』が発売中。今回は、サッカー日本代表と対戦するドイツ代表に迫った「規律と自由の間で揺れ動く伝統」から一部を抜粋して前後半に分けて公開する。(文:西部謙司)
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120年以上の歴史でドイツ(西ドイツ)代表の監督はたった11人しかいない。
28年間も務めたヘルベルガーは別格としても、ヘルムート・シェーンが14年、ヨアヒム・レーヴは15年。1990年大会で優勝監督となったベッケンバウアーは6年、後任のフォクツが8年と、ほとんどが長期政権なのだ。
その中でユルゲン・クリンスマン監督の任期2年は例外的な短さなのだが、このときに大きな変革が起きている。
クリンスマン監督は旧態依然の体質から脱するべく、様々な改革を行った。中には意味がないようなものもあったが、ゾーンディフェンスの導入は抜本的な変化だった。とはいえ、クリンスマンが指揮を執った2006年ワールドカップ時点で、ゾーンディフェンスでない国を探すほうが難しい状態であり、ドイツは戦術的な時流からひどく乗り遅れていた。すでにオールコートのマンツーマンではなくなっていたにせよ、マンマークの強さはドイツの伝統であり多くの栄冠を勝ち取った守備戦術なので、変更の時機を見失っていたのだ。
2006年ドイツ大会の開幕時点ではゾーンディフェンスがまだギクシャクしていたが、3位で開催国の面目は保った。次の10年南アフリカ大会も3位、監督はクリンスマンのアシスタントコーチだったレーヴに代わり、若手の台頭が目立っていた。
ドイツは2000年に育成改革を行っている。技術の優位性を取り戻すべく大規模な改革を行った結果、移民系選手が台頭した。トルコ系のメスト・エジル、チュニジア出身のサミ・ケディラはその先駆けで、その後現在に至るまで多民族化が進んだのは、かつてのフランス代表と似た現象だ。同時に技術に優れた選手が輩出されるようになり、トーマス・ミュラー、トニ・クロース、フィリップ・ラームなどの逸材が出てきた。
【後編】ドイツ代表が行ったある種の「原点回帰」とは? 規律と自由の間を揺れ動く国の伝統【代表プレースタイル図鑑】