サッカー日本代表の胃袋を支える心強い存在がいる。
2004年から日本代表の専属シェフとして海外遠征に帯同している西芳照、その人だ。衛生管理、栄養摂取はもちろんのこと、いくら調理環境が悪かろうとも、調理機材が壊れようとも毎回のように対応力を発揮して、美味しく、温かい料理を選手たちに提供してきた。
選手たちへの愛情とリスペクトを込めた西の料理は選手に愛され続け、せめて食事するときくらいは楽しんでもらいたいとの思いから始めた「ライブクッキング」はいつしか定番となった。ベスト16に躍進した2010年の南アフリカワールドカップ後、岡田武史監督から「シェフ一人スタッフが違っていても勝てなかった」とその貢献度を称えられたほどである。
ワールドカップへの帯同は2006年のドイツ大会から始まって今回で5回目。そしてこのカタールを最後に日本代表専属シェフからの“卒業”を考えている。
「前回のロシアで本当に辞めようと思っていたんです。でもベルギー相手に悔しい負け方をして、代表スタッフの方からも『もう1回、やりましょうよ』と言ってもらえて。だから僕にとっても集大成。僕がサッカーをするわけじゃありませんが、チームに対して食事面からできる限りのサポートをしていきたい。全身全霊を込めてやらせていただきます」
試合前の鉄板ローテーション
西には、勝負メシの“鉄板ローテーション”がある。
肉、魚、野菜とバランス良く提供されるなか、夜のディナーにはお楽しみのメインディッシュが用意される。試合3日前はハンバーグ、2日前は銀だらの西京焼き、試合前日はウナギの蒲焼、そして試合が終わった日の夜はカレーだ。意図的ではなく、自然とそうなったという。以前からあった「前日ウナギ→当日カレー」の流れとハンバーグ、西京焼きが合体して一連のセットになった。
「これじゃ選手のみなさんも飽きるだろうと思って一度崩してみたら、逆にチームのほうから『変えないでください』と言われまして。だから今回もローテーションは崩しません。決勝トーナメントに入っても、ずっと同じです」
なぜ、そこまで愛されているのか——。
ハンバーグは牛ヒレ100%のためヘルシー。手作業で肉をミンチにして玉ねぎ、パン粉、牛乳でつくりあげる。ソースも玉ねぎを炒めたものを使う。
「ゴロゴロ肉をあらびきにして、そんなに混ぜないんです。食べた瞬間に肉がほぐれて、肉汁がバーッと口のなかに広がっていくようなハンバーグですね」
試合2日前のディナーに登場するのが銀だらの西京焼きである。西が懐石料理の修行をしていた駆け出しのころからつくってきた得意料理の一品でもある。
「昔はホッケとか赤魚とかいろいろ持っていってつくったんですけど、あんまり食べてくれないんですよ。でも銀だらの西京焼きだけは別で、抜群に食べてくれますし、若い選手にも好評なんです」
ちなみにハンバーグとの“直接対決”にも一度勝利したとか。西が言葉を続ける。
「いつかは忘れましたけど、きょうは西京焼きの日だけど、ハンバーグも一緒にやっちゃえって両方出したことがあったんですよ。そうしたら銀だらがなくなって、ハンバーグのほうが残っちゃったんです。ハンバーグも手間を掛けてつくりますから、アレレと思っちゃって(笑)。まあ、みなさん銀だらモードだったこともあるんでしょうけど、あれからはかぶらないようにしています」
前田のウナギ、中田のカレー
試合前日の食卓を飾るのが、ウナギの蒲焼き。疲労を回復させて活力が出てくるという効果がある。南アフリカワールドカップでは初戦のカメルーン戦を控えた前夜、現地ホテルのガスコンロの火力があまりに弱く、調理場に長時間こもって焼き上げたという“武勇伝”を持つ。意地で提供した蒲焼きが、カメルーン戦の勝利を呼ぶ活力を与えたのだ。
「確か、前田遼一さんが代表でプレーしていたころ、普段Jリーグの試合の前日はウナギを食べてるってテレビで紹介されて、それいいなって思ったのが始まりだったと記憶しています。ビタミンB1が豊富で、ご飯をいっぱい食べられて疲労回復につながるのもいい。選手のみなさんからも好評だったので“試合前日はウナギ”で定着しました」
そしてウナギの蒲焼きのもっと前から定着していたのが試合後のカレーライスだ。これは西が代表専属シェフになる前から続く風習。フランスワールドカップ以前、中田英寿が試合前の食事としてカレーを要望したことが始まりとされ、それが時を経て「試合前」から「試合後」になったというわけだ。
西のカレーは鶏肉と野菜がゴロゴロと入った家庭的な味。「試合おつかれさまでした」という愛情のスパイスもこめてじっくりと煮込む。
蒲焼きもカレーも、美味しく食べられるようにとお米にこだわり、カタールでは現地で購入できる新潟産を使用するそうだ。
今回はこれまでのワールドカップと違って拠点を変えなくていいため、シェフの立場からすれば当然、負担は軽減される。滞在するホテルではサポートしてくれるシェフのなかに中華を専門にする人がいるのも大きいと西は言う。
「やってほしいことが伝わりやすいですよね。揚げ物はNGなのでたとえばエビチリをつくるにも、下味はこうで片栗粉をつけてお湯に入れてソースに絡めてくださいと言えば分かってもらえます。今回は日本から食事もつくれる栄養士も帯同しますし、料理の幅や種類も増やしていけるんじゃないかとも考えています。食事会場も視察させてもらいましたが、広いし、開放感があって外の景色も見える。不安なことは今のところ何も見当たらないので、料理をつくっていくことに専念できそうです。
森保(一)監督はロシアのときもコーチングスタッフとして参加されていましたので、僕の料理やスタンスはすべて分かってもらっています。そのうえで『全部任せます』と言ってもらっているのでしっかりやっていきたいと考えています」
森保監督を怒らせた言葉
指揮官は食事会場に入るときも、出ていくときも食事を提供する西のところまで足を運び、挨拶するのはいつもの光景だ。スタッフ一人ひとりの仕事をリスペクトし、感謝を伝えることを忘れない人だという。
だが西は、そんな森保から一度だけ「ちょっと怒られた」ことがあるという。今年3月、アジア最終予選アウェーのオーストラリア戦に勝ってワールドカップ出場を決め、チームが宿舎に戻ってカレーを食べるため食事会場に足を運んだときのことだ。
「西さん、勝ちました! 西さんのおかげです!」
そう声を弾ませて勝利を報告する森保に「おめでとうございます!」と返すと、しかめっ面に変わった。
「監督の表情が変わっちゃったんですよ。『おめでとうございます、じゃないですよ。仲間でしょ。他人行儀に言うのは止めてください!』って。この人は凄い人だなって思いましたよ」
チームに対する深い愛情は変わらないが、「チームに関わる者の一人」としての意識を強めている。大会後の“卒業”をわざわざ口にするのも、退路を断って臨みたいとする思いがあるからだ。
用意周到、準備万端。
勝利を呼ぶ鉄板ローテーションを引っ提げて、戦うシェフがドーハの厨房に立つ——。