中東で初めてワールドカップが開催されたが、蹴球放浪家・後藤健生にとってはなじみの土地でもある。だが、当然ながら「初めて」はあったのだ。あの「ドーハの悲劇」が生まれた頃…。

■中東という地の利

 2022年のワールドカップは史上初めて中東のカタールで開催されました。ドーハおよび周辺都市での開催ということで、すべての会場がメトロやバスでアクセスできるため、1日に2試合以上を観戦することができるので大変に便利な大会でしたが、宿泊施設が不足してホテルなどの宿泊料が高騰してしまいました。

「中東での開催」を旗印にするなら、やはりカタール単独でなく湾岸諸国(アラビア湾周辺の産油国)の共同開催にすべきだったのではないでしょうか?

 モロッコがアフリカ初のベスト4進出を果たしたのが大会後半最大の話題となりましたが、これも同じイスラーム文化のカタール開催だったことのおかげだったのは間違いないでしょう。

 カタール人とモロッコ人では民族的にも違いますし、同じアラビア語でも湾岸地域とマグレブ地域では口語としては大きな差がありますが、イスラーム教徒ならコーランを暗唱できるわけで、アラビア語は共通語として通用します。

 また、アジアとアフリカの中間にあるアラビア半島は地理的にはアジア大陸の一部とされ、サッカーの世界でもカタールはアジア・サッカー連盟(AFC)のメンバーなので、アジア諸国にとってもカタールは馴染みのある会場でした。

 日本代表にとっても、ドーハは1993年のあのアメリカ・ワールドカップ最終予選を初め、何度も戦った経験のある場所でした。2011年のアジアカップではハリファ国際スタジアムでの決勝戦でオーストラリアを下して優勝しています。そのハリファ国際スタジアムでは、今大会でもドイツとスペインに勝利。日本にとってはゲンの良いスタジアムの一つです。2023年のアジアカップにも期待しましょう。

 日本以外のアジア諸国にとってもドーハは慣れ親しんだ場所。日本以外にも韓国、オーストラリアがグループリーグを突破しましたが、やはり準ホームだったことのアドバンテージは大きかったのではないでしょうか?

■入り混じっていた期待と不安

 選手たちだけでなく、サポーターにとっても今では中東はお馴染みの場所となっています。

 しかし、初めて中東諸国を訪れた頃は「中東って、いったいどんな所なのだろう?」と不安がいっぱいだったことを思い出します。

 日本代表が初めてドーハで戦ったのは1983年のことで、その後、1988年のアジアカップにも、バルセロナ・オリンピック予選を目指す若手主体の日本代表が予選を勝ち抜いて参加しましたが、本大会では各国のA代表を相手に1引き分け3敗という惨憺たる結果に終わりました。

 多くのサポーターが初めて中東を訪れたのは、1993年のアメリカ・ワールドカップ1次予選の時でした。

 アラブ首長国連邦(UAE)、タイ、バングラデシュ、スリランカが参加した1次予選F組は、前回1990年イタリア・ワールドカップに参加したUAEとハンス・オフト監督の下、1992年のアジアカップで初めて優勝した日本の事実上の一騎打ち。日本とUAEで、それぞれ総当たりリーグ戦を行う「ダブル・セントラル」方式で行われました。

 1993年4月に行われた日本ラウンドでは日本が4戦全勝で終了。日本ラウンド終了から10日後にはUAEに場所を移して第2ラウンドが始まりました。UAEの試合はすべて内陸のオマーンとの国境にあるアル・アインで行われ、それ以外の試合はドバイのアルマクトゥーム・スタジアム(アル・ナスルのホーム・スタジアム)が会場でした。そして、この時初めて、数多くの日本代表サポーターが中東地域に乗り込んだのです。