「日本人になりたいんじゃない。私たちは日本人なんです」
-次に、訪ねて行ったのが上原さん3姉妹ですね。彼女たちは、まったく日本語を話さない人たちでした。
右から上原・パムフィラさん(当時85歳)、トミコさん(同82)、トヨコさん(同79)
<「彷徨い続ける同胞」より>
開戦時に首都・マニラにいた上原さん一家は父親が日本人だとわかればゲリラに殺されると考えて、上原姓を名乗ることを禁止した。ある日、「戦争が始まったから」と言って、日本兵が父親をトラックに載せて行ったきり、生き別れになった。当時のフィリピンでは子どもは「父親の国籍に属する」と法律で決まっていて、上原3姉妹はフィリピン人でも日本人でもない「無国籍」として戦後、極貧の中を生き延びた。
那須:上原3姉妹は、フィリピンでも“最後の秘境”とも呼ばれる「リナパカン島」に住んでいますが、非常に波が高いところで、1年で数週間しか地元以外の人は船で上陸できないような場所です。彼女たちは、日本語は全くできませんし、フィリピンは7500を超える島が点在していて、島ごとに言語が実は全く違います。プロの通訳もいない状態での取材でした。
-インタビューしている時は、彼女たちが何を話しているかわからない状態だったんですか?そんな取材があるのですね。
松本:仕方ありません。同行している現地で少しだけ英語が分かる方もいたので、こちらのなんとか質問だけは何度していますが、あちらがどう返答しているかはわからない状態です。でも「ハポン=日本人」と何度も言っているのはわかった。何か強く訴えかけているのはわかりました。
-実際には、「日本人になりたいんじゃない。私たちは日本人なんです。私たちは感謝しています。あなた方、“日本”が私たちを探しにきてくれた。日本人の子どもとして生まれたことに後悔などありません」と語っていました。
残留日本人2世たちの訴え