では、なぜ製作に踏み切ったのか。きっかけは1995年、アメリカで、広島市として初めて開催した「海外原爆展」だったという。

 「(遺品を)大きな箱の中に入れて、綿と発泡スチロールに入れて持って行った。万全を期したと思ったんだけど、帰りに(遺品の状態が)悪くなった。炭のカスがついていた。これだったらとてもじゃないけど、外へ貸すわけにはいかない。そのためにはレプリカを作るしかないんじゃないかということが一つの大きな発端だった」。

 当時、「本物でないと伝わらないのではないか」という意見もあった。しかし、国内外から被爆遺品の貸し出し依頼が相次いでいた。「多くの皆さんがその気持ちをもって見たいとおっしゃるのであれば、もうレプリカでいくしかないという判断をした」(原田さん)

 こうして、初めてのレプリカ3点が完成した。これまでに50点近くが作られ、国内外の原爆展で、その役割を果たす。

2歳で亡くなった男の子が履いていたパンツ
この記事の写真をみる(9枚)