バーソロミュー・オグベチェ(FW/元ナイジェリア代表)
■生年月日/1984年10月1日
■身長・体重/177センチ・78キロ
 
 ヨーロッパの表舞台からは消えてしまったかもしれない。しかし、サッカーの世界から消えたわけではない。インドでは歴史に名を残すレジェンドだ。
 
 2018年から4年間で積み重ねた通算53ゴールは、インディアン・スーパーリーグ(ISL)の歴代最多記録だ。14年にスタートとリーグの歴史が浅いとはいえ、77試合で53ゴールとハイペースで量産した。21-22シーズンはハイデラバードFCで18ゴールを挙げてISLのシーズン最多得点記録に並んだ。
 
 バーソロミュー・オグベチェは、37歳にして我が世の春を謳歌している。
 
 経歴は輝かしい。パリ・サンジェルマンに青田買いされ、17歳になる直前にプロデビューを果たすと(01年9月のリーグ・アン8節モンペリエ戦)、17歳になってすぐに初ゴールを決めてみせた(01年11月のリーグ・アン15節ナント戦)。17歳55日でのそのゴールは、パリSGのクラブ最年少記録だ。
 
 身体能力に優れ、パワフルかつ俊敏で、まるでゴム毬のように躍動する。上背はないが、筋肉質の体躯は均整が取れ、競り合いを恐れず、身体ごとゴールに向かっていく、そんなダイナミックなストライカーだった。
 
 公式戦28試合に出場して5ゴールを挙げたデビューシーズンの終盤、02年4月にナイジェリア代表にデビューし、日韓ワールドカップのエントリーメンバーに入った。単なる数合わせではない。当時のフェスタス・オニグビンデ監督から背番号9番を与えられ、初戦のアルゼンチン戦、続くスウェーデン戦に先発出場した。17歳と8か月でのW杯エントリーは同国史上2番目の若さで、スタメン出場はナイジェリアの史上最年少記録だ。
 
 成功へと続くレールに乗って走り出したかと思われた。そうではなかった。続いていたのは茨の道だった。02-03シーズンは太腿の怪我もあって公式戦24試合・1ゴールと成績を落とすと、翌03-04シーズンからはレンタル生活が始まった。前半戦で結果を出せず、1月から半年間レンタルに出されるというシーズンが2年続いた。メスから戻った05年の夏、パリSGに居場所はなくなっていた。
 
 ここから始まったのは、根無し草のようなキャリアだ。フランスからUAEに渡り、続いてスペインへ飛び、さらにギリシャからイングランド、再度スペインを経て、オランダに流れ着く。14年1月、カンブールと契約したこのときは29歳。計6か国、11チームを転々とする20代の10年間だった。
 
 16歳でプロデビュー、17歳でプロ初ゴールにW杯出場というその事実に焦点を合わせれば早熟の天才だ。しかし、その実は大器晩成型だったのかもしれない。キャリアで初めてシーズン二桁得点をマークしたのは30歳の14-15シーズン(カンブールで13ゴール)で、二度目の達成は33歳の17-18シーズン(ヴィレムIIで10ゴール)だ。そしてインドに新天地を求め、37歳でレジェンドとなった。
 
 ただ、欧州の表舞台を去ることになるインド行きは、本意ではなかった。家族や知人にも反対され、最初のオファーは断っている。翻意のきっかけは、ISLでプレーしていた同胞で友人のカル・ウチェの〝セールストーク〞だった。本人がISLのポッドキャストで明かしている。
 
「友人(ウチェ)から素晴らしい話をたくさん聞いて、もう一度じっくりと考えてみた。自問自答を繰り返し、心の声に耳を傾け、確信が持てたんだ。インドに行くべきだって。そしてそれはキャリアを通してもっとも賢明な判断だった」
 
 サッカー人生を振り返っても後悔はないようだ。思うに任せなかったパリSGでの日々も、むしろ貴重な財産だと言う。
 
「駆け出しの頃に、歴史に残るような偉大な選手たちと一緒にプレーできたのは本当に幸運だった。ロナウジーニョ、ジェイ=ジェイ・オコチャ、ニコラ・アネルカ。彼らは僕を弟のようにかわいがって、導いてくれた。選手として、人として、いまの自分があるのは彼らのおかげだ」
 
 22年5月で満了したハイデラバードとの契約は更新で話がまとまった。遅咲きの花は、インドの地にしっかり根を張っている。
 
文●松野敏史
 
※『ワールドサッカーダイジェスト』2022年8月18日号より転載