4年に一度のサッカーの祭典、FIFAワールドカップ・カタール2022が11月20日に開幕。今大会では、なんと全64試合をABEMAが無料生中継します。ならばNumberも一緒に大会を盛り上げようということで、「Number渋谷編集室 with ABEMA」を期間限定で開設し、従来のNumberとは一味違ったコンテンツをNumberWebを通じて配信。長くサッカーを見つめてきたスポーツライター金子達仁さんの記憶に刻まれた、W杯の名勝負とは——。

 調べてみるとキックオフ時間は17時15分だったようだから、日本は0時15分だったことになる。もっととんでもなく深い、明け方3時ぐらいの試合開始だった印象があるから、ちょっと驚いた。死ぬほど眠い目をこすりながら見始めて、いつの間にか涙が流れていて、気がついたら顔だけでなく全身が汗でビショビショで、慌ててシャワーだけ浴びて学校に行った──そんな記憶があるのだが、どうやら、自分で自分にバイアスをかけてしまっていたらしい。

 それが、82年スペイン・ワールドカップのイタリア対ブラジルだった。

 翌朝、ヘロヘロになって辿り着いた学校で、サッカー部の仲間と交わした会話はいまでもよく覚えている。

「見た?」

「見た!」

「泣いた?」

「泣いた!」

 わたしだけではなかった。一人だけでもなかった。何人ものサッカー部の仲間が、こらえきれずに涙を流したことを告白した。涙腺を破壊する引き金となったのは、ブラジルが2-2に追いつくゴールを決めたパウロ・ロベルト・ファルカンの、狂気さえ感じさせるガッツポーズだった。

1982年7月5日、2時リーグ・グループCでイタリアと対戦するブラジルのファルカン ©Getty Images
1982年7月5日、2時リーグ・グループCでイタリアと対戦するブラジルのファルカン ©Getty Images

 あのとき、わたしは、わたしたちは、初めて知ったのだ。

 こんなにも凄まじいドラマがある。

 こんなにも美しい試合がある。

 ワールドカップとは、かくも荘厳で勇壮なものなのだ、と。

サッカーの深淵を見た82年スペイン大会

 4年前のアルゼンチン大会も、忘れられない大会ではあった。ただ、いまになって振り返ってみると、あの大会で一番強く印象に残っているのは、視界を遮るほどの濃度で舞う白い紙吹雪であり、その中を疾走するアルゼンチン代表マリオ・ケンペスの雄姿であり、黄金のカップを掲げるダニエル・パサレラの歓喜だった。

 どれもサッカーにとって、ワールドカップの歴史にとって極めて大切な要素ではあるものの、サッカーそのもの、ではなかった。後に大会すべての試合をビデオで見返してみて、70年や74年のワールドカップを知る人たちがアルゼンチン大会を酷評する理由が少しわかった。

 70年にはイタリア対西ドイツの4-3という伝説的な死闘があった。74年にはトータルフットボールがブラジルの魔術師たちを粉砕するドルトムントの衝撃があった。

 アルゼンチン大会には、なかった。名勝負が、伝説が、なかった。

 だから、82年のスペイン・ワールドカップは、わたしにとって、実質的には初めてと言えるワールドカップ体験だった。

 1次リーグのブラジル対ソ連戦。ソクラテスの同点ミドルとエデルの逆転ドライブ。この1試合だけで、78年大会のどの試合よりもスリリングだった。78年大会のどんなチームよりも、黄金のカルテットは魅力的だった。彼ら以外に黄金のトロフィーを手にするチームがあるとは、とても思えなかった。

 だが、そんなチームを、イタリアのパオロ・ロッシが一人で葬り去った。

 青いユニフォームを着た選手たちの中に、ジーコを越える輝きを放つ選手は一人もいなかった。ジュニオールの勇敢さも、エデルの強引さもなかった。

 それでも、たった一人のストライカーがすべてを覆すことがある。

 あの試合で、わたしは初めてワールドカップの、いや、サッカーの深淵を垣間見た。

イタリア優勝の立役者、パオロ・ロッシ。得点王にして最優秀選手受賞の活躍だった ©Getty Images
イタリア優勝の立役者、パオロ・ロッシ。得点王にして最優秀選手受賞の活躍だった ©Getty Images

高校3年生の決意

 寝ぼけ眼の試合翌日だったか、それとももうしばらく経ってからだったか。いつしか、わたしは自分自身に誓っていた。固く固く、誓っていた。優柔不断で場当たり的な自分の性格からして、時間が経つと「やっぱり無理だわ」という気持ちが沸き上がってきてしまいそうだったので、引っ込みがつかなくなるよう友人たちに宣言した。

 俺、コロンビアに行くわ。

 サッカー選手としての自分に何の未来も可能性もないことは、もうわかっていた。人間として、社会人としての可能性も、5人のうち2人が東大に進むとかいう超進学校に通う弟にかないそうもない。だったら、やりたいことをやる。見たいものを見る。そのために、次のワールドカップが行なわれるコロンビアに行く。

 そう決めて、高校3年生の秋、『サッカーマガジン』が募集した日本交通公社のワールドカップ観戦ツアーに申し込んだ。オプションにオプションをつけまくって、開幕から決勝まで観戦する日程を組んでもらった。

 申し込みからしばらく経って、コロンビアが経済的理由からワールドカップ開催を返上し、メキシコでの開催が決まったことで、よりテンションは跳ね上がっていた。コロンビアがどんな国だかは知らないが、メキシコに「エスタディオ・アステカ」があることは知っている。

 ジャンニ・リベラが吠え、肩を脱臼したフランツ・ベッケンバウアーがそれでもプレーを続けた伝説の試合、70年のイタリア対西ドイツが行なわれた舞台だ。収容人員が10万人を越えるという世界屈指の巨大スタジアム。自分がそんな場所に足を踏み入れられることが、信じられなかった。学生からすると目が眩むようなツアー料金も、まったく問題にならなかった。

 総額、確か160万円ぐらい。1ドルが240円程度という時代だった。

 なので、大学にはせいぜい月に1度ぐらいしか行かなかった。夕方から明け方まではファミレスで働き、昼間の空いている時間はバイク便をやった。夏休み、冬休みは稼ぎのいいリゾートバイトに精を出した。清里のレストランで働いていた時、突然オーナーから「とにかくおにぎりを握りまくれ。300個ぐらい握れ」と命じられ、数時間後、それがすべて売り切れたこともあった。85年8月12日。塩をまぶしただけの不格好なおにぎりを買い占めていったのは、御巣鷹の尾根に向かう報道陣だった。

 その約1カ月後、メキシコ・シティはマグニチュード7.5を越える巨大地震に襲われ、1万人近い死者を出す。普通であれば、開催を危ぶむ……というか、「それどころじゃねーだろ」と開催反対の声があがるところだが、メキシコ政府は即座に返上を否定し、わたしも予定通りの開催をまったく疑わなかった。いまから思えば、どちらもだいぶイカれている。

 大学3年生になってからは、毎日が正月を待ちわびる小学生のようだった。

 もういくつ寝ると──。

メキシコ・シティの記憶

 ロサンゼルスを経由して、メキシコ・シティに到着したのは、確か、5月29日の夜だったと思う。

 開幕の2日前。着陸時に窓から見えた夜景がこの世のものと思えないほどに美しかったこと、昂りに昂った気持ちが、ホテルに到着した途端にいささか萎えたことはよく覚えている。日本交通公社が用意していたのは、天井に鏡があり、ベッドが丸いホテルだった。そこに、部活を休んでツアーに参加したという立正大学サッカー部4年生の方と一緒に寝ることになった。ラブホテルに男2人で1カ月。

 丸いベッドに2人で横になってテレビをつけたら、ニッサンのコマーシャルをやっていた。「サクラ・デ・ニッサン!」。メキシコではシルビアがサクラという名前で売られていることを知った。

 それからの1カ月間は……もう30年以上昔のことだというのに、鮮明な記憶がいくつも残っている。

1986年5月31日、アステカでのオープニングセレモニー ©Getty Images
1986年5月31日、アステカでのオープニングセレモニー ©Getty Images

 アステカでの開幕戦。イタリア対ブルガリア。ビルの屋上から地上を見下ろすような視界に驚愕し、初めて見る生のアズーリの、目を射抜くような美しさに言葉を失った。

 エスタディオ・オリンピコでのアルゼンチン対韓国。最終予選で日本を圧倒した韓国が、無残なまでに蹂躙されていた。付近のメキシコ人から嘲笑うかのように「コレア、コレア」と声をかけられ、そのたびに「ノー・ハポネス!」と言い返したことを思い出す。

 開催国メキシコの初戦はベルギーだった。10万人が奏でる「メヒコ、メヒコ、ラ、ラ、ラ!」の大合唱。国民的英雄ウーゴ・サンチェスのゴール。

 アステカからの帰り道、わたしたちの乗ったフォルクスワーゲンのミニバスは興奮した群衆によってひっくり返された。わたしたちだけではない。そこかしこで、渋滞中のクルマがお腹を見せていた。生まれて初めて体験したクルマに乗ったままの全回転。運転手さんとガイドさんは激怒していたが、わたしたちツアー参加者はみんな笑っていた。大笑いしながら、これまた笑顔の暴徒たちとクルマを元に戻し、何事もなかったかのようにホテルに戻った。もちろん、ケガ人は一人もいなかった。

 ……とまあ、振り返っていけばキリがない。ここのところすっかり記憶力が衰えてきたが、メキシコの思い出だけは、どういうわけか色あせる気配がない。

 ただ、圧倒的に特別なのが、6月22日の記憶である。

 初めて足を踏み入れた時は全身が震えるほど感動したアステカも、4回目、5回目ともなるとさすがに飽きるというか、新鮮さが薄れてきた。試合のカードは変われども、座る席はいつも一緒。お隣に座るウルグアイ人の老夫婦とも、すっかり顔なじみになってしまった。

 だから、だったのだろう。あの日、わたしは思い切った行動に出た。スタジアムの周辺でダフ屋さんをつかまえ、自分が持っているチケットと、もうちょっと高いチケットとの物々(+多少の現金)交換を試みたのだ。結果、それまでピッチを上から見下ろす席からしか見たことがなかったわたしは、アルゼンチン対イングランドの準々決勝を、金網にかじりつき、はるか高みにあるいつもの席を見上げる場所から観戦することになった。

アステカの奇跡

 そこで、あの奇跡が起きたのだ。

 ウルグアイやスコットランドが戦ったエスタディオ・ネサに比べればずいぶんと遠い、けれどいつもの席からすれば手が届きそうに感じられる距離を、マラドーナが泳いで行った。サッカーを語る上であまり適切な表現でないことは認めるが、それ以外、あのときのマラドーナを表現する言葉がわたしにはない。宇宙船にもたとえられたアステカの空間を、青と白の背番号10が優雅に泳いでいた。

「神の手」の1点目に続き、伝説の「5人抜き」ゴールを決めるマラドーナ ©Getty Images
「神の手」の1点目に続き、伝説の「5人抜き」ゴールを決めるマラドーナ ©Getty Images

 そして、すべてが爆発した。

 アルゼンチンの喜びが爆発し、アステカの観衆が爆発し、何より、わたしの中にある何かが爆発した。言葉にならない絶叫がほとばしり、誰彼構わず周囲の人たちに抱きつきまくった。一瞬遅れて、結構な量の雨も落ちてきた……と思ったら、ビールだった。2階席、3階席、4階席のお客さんが、興奮して持っていたカップを放り投げたのだろう。ただ、わたしはまったく気にしなかったし、それは、周囲のお客さんも同じだった。

 ご存じの通り、この試合ではもう一つ、伝説的な事件が起きていた(いわゆる「神の手」というやつだ)。もっとも、そのことをわたしが知ったのは、日本に帰国し、『サッカーマガジン』の増刊号を開いてから、だった。

 当時のアステカにオーロラビジョンはなかった。少なくともわたしが観戦していたエリアでは、誰もマラドーナのハンドに気付いていなかったし、当時のわたしが知っていたスペイン語と言えば、ハポネス(日本人)、セルベッサ(ビール)、ポルファボール(お願いします)、グラシアス(ありがとう)ぐらいなもので、マノ(手)というボキャブラリーは所有していなかった。よって、テレビを見ても、新聞を見ても、何が起きたのかさっぱりわからずにいた、というわけである。

サッカー史上、最も有名な「ハンド」の瞬間 ©Getty Images
サッカー史上、最も有名な「ハンド」の瞬間 ©Getty Images

 こうやって昔話を書いていると、いま自分が存在している時代、空間が果たして現実のものなのか、疑わしい気分にさえなってくる。

 というのも、86年7月のわたしがこんなことを言われたら、絶対に信じなかったという自信があるからだ。

あの夏から40年

 1年後、入社試験でマラドーナの5人抜きを体験したときの感動を書いたわたしは、専門誌にもぐり込むことに成功する。

 いずれ日本にもプロ・リーグが誕生し、ジーコやリネカーといったスーパースターが日本のピッチに立つ。

 日本が12年後のフランス・ワールドカップに出場し、パサレラ監督率いるアルゼンチンと初戦を戦う。

 22年のワールドカップはカタールで開催され、7大会連続出場となる日本は、統一されたドイツ、世界王者となった経験のあるスペインと同じグループに入る。

  信じられるはずが、ない。

 4年後となる26年、ワールドカップは三度アステカを舞台とすることが決まっているが、アメリカ、カナダとともに迎え入れる出場国は48カ国になる、だなんて。

 日本では冬でも緑の芝生は育たない、と言われた時代があった。

 サッカーは日本人の国民性に合わない、と断言する文化人もいた。

 携帯電話はもちろん、パソコンすら一般的にはなっていない時代だった。記者席で活躍するのは鉛筆か、タイプライターだった。

 気がつけば汗だくになっていたイタリア対ブラジル戦があった82年の夏、我が家にはまだエアコンがなかった。

 信じられるはずが、ない。