4年に一度の祭典、ワールドカップ。この大舞台に立つことを約束された者などいない。メンバー入りを巡る熾烈な争いで、本大会が近づくにつれて序列を覆したケースもある。日本が参戦した過去6大会で、W杯を手繰り寄せた男たちの知られざるストーリー。1人目は、1998年のフランス・ワールドカップに出場した中西永輔だ。
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日本が初めてアジアの壁を破り、世界に挑んだのが、ご存じの通り、1998年のフランス・ワールドカップだ。グループステージでアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3連敗という屈辱を味わったこの大舞台で、持てる力の全てを出し切り、キーマンつぶしに奔走したのが、3バックの一員・中西永輔だった。
「僕は97年9月にスタートした最終予選直前に代表に呼ばれ、右サイドバックの名良橋晃さんの控えという立場にいました。そんな自分に出番が巡ってきたのが、9月28日の日韓戦。まさに大一番でした」
最終予選第4節。5万6704人という大観衆のもと、東京・国立競技場で行なわれた因縁の対決。国際舞台は未経験の中西は1本目のパスをミスし、頭が真っ白になってしまった。そのまま雰囲気に飲まれ、自分らしさを出せず、前半45分で交代を強いられた。日本も山口素弘の華麗なループシュートで挙げた先制点を守り切れず、1-2で逆転負けを喫した。
直後のカザフスタン&ウズベキスタン遠征の結果を受け、加茂周監督が更迭され、岡田武史監督が就任した混迷の歴史は、25年が経過した今も広く知られている。
「浮足立ってチャンスを逃した後、『自分はいつ外れてもおかしくない』と危機感を覚えつつ、日々の練習に100パーセントで向き合い続けました。イランとの第3代表決定戦のジョホールバルの時も肩が上がらない状態だったけど、岡田さんに嘘をついて『行けます』と言い、初日の練習で怒られた(苦笑)。そのくらい『しがみついてやる』という気持ちでした」と中西は当時、ギリギリの状態だったことを明かす。
フランス行きを決めた“ジョホールバルの歓喜”をピッチで味わえず、当落選上のまま98年に突入。4月の日韓戦では当時17歳の市川大祐も抜擢されるなど、右SB争いはますます熾烈になった。
「プロで6~7年やってきた自覚もあったし、負けられない気持ちは強かった。ただ、自分には左右のサイドバックをこなせる強みがあり、そこには自信を持っていました。当時は『器用貧乏』みたいな言い方もされましたけど、左サイドバックの相馬(直樹)さんを含めて、あまり他の人のことは意識せず、自分の特長を出すことだけに集中していたんです」
今で言う「ユーティリティ性」を岡田監督も高く評価した。彼らスタッフはアルゼンチンとクロアチアを徹底分析した結果、3バックの採用を決断。5月のチェコ戦で右CBに指名された中西は「ここでやられたら話にならない」と覚悟を決め、試合会場の日産スタジアムのピッチに立ったという。
「岡田さんはジェフ市原(現千葉)で自分が新人だった頃のコーチ。清雲栄純監督に使われず、悩んでいたプロ2年目に話を聞いてもらったことがありました。『お前の持ってるものを100パーセント出してダメならしょうがない』という言葉が刺さり、翌日から心を入れ替えて先頭を走り、サッカーと真摯に向き合うようになったんです。そんな恩もありましたから、とにかく自分らしさを出そうと決め、事前にビデオを徹底的に見てどう抑えるか研究しました」
中西が気づいたのは『動き出しで勝てる』ということだった。現在の代表選手のように国際経験がない分、確信は持てなかったが、実際に対戦してみたらその通りだった。
「チェコ戦で自信がつき、ワールドカップ直前のユーゴスラビア戦で確信を持つに至りました。ユーゴ戦では当時レアル・マドリーで大活躍していた(プレドラグ・)ミヤトビッチと対峙して、結構やれました。最初は『どこまで通用するのかな』という不安な気持ちだったのが、『やられてもしょうがない』という前向きなほうへ変化していったんです。日韓戦の失敗を良い教訓にできたのが大きかったですね」
上昇気流に乗った中西は、夢に見たW杯の舞台で、初戦アルゼンチン戦のスタメンを勝ち取る。託されたのは、強力2トップの一角を占めるクラウディオ・ロペス封じという大役だった。
「目の前にはロペスや(ガブリエル・)バティストゥータ、(アリエル・)オルテガなどスーパースターが並んでいてワクワクしましたね。ロペスに対しても自分なりに映像を繰り返し見てイメージを作り、動き出しで勝つことを意識して守りました。狙いはハマったし、負けていなかったと思う。
結果的には不運な形からバティに決められ、0-1で敗れましたが、負ける相手じゃないと感じた。自分としてはサッカー人生で最高のパフォーマンスを出せた試合。それがあの大一番だったのは幸せでしたね」
続くクロアチア戦も0-1で敗れたが、中西は非常に良い仕事を見せた。敵のダボル・シュケルは主に秋田豊がケアし、中西はフォロー役を担った。司令塔スボニミール・ボバンの不在でパスの出し手が欠けたことと、35度近い猛暑も重なり、クロアチアは苦戦。スピード面では日本が勝ったが、ここ一番でシュケルに決められた。勝負の分かれ目は「細部の差」だと中西は痛感させられた。
「最後のジャマイカ戦は出られなかったんですが、落選危機からワールドカップ出場まで巻き返せたのは、一度はどん底に落ちた過去を自分なりに生かせたからでしょう。欧州組が多くなった今はクラブと代表の比重の置き方が違うのかもしれませんが、僕はワールドカップを想定して、練習から研究まで自分にやれることは全てやった。本大会への執着心と準備力が滑り込みにつながったのかなと今も感じます」
やはり直前で下剋上を起こす人間は何かが違う。24年前に全身全霊を注いでW杯に突き進んだ中西は、そのことを色濃く示してくれた。
取材・文●元川悦子(フリーライター)
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