2人合わせて「ワールドカップ25大会」を取材した、ベテランジャーナリストの大住良之と後藤健生。2022年カタール大会でも現地取材を敢行している。古きを温め新しきを知る「サッカー賢者」の2人がカタール・ワールドカップをあらゆる角度から語る!
■何のために戦うのか
「何のために戦うのか」……。それは選手個人の問題でもあるが、その選手が属している国家や社会の状況にもよるのだ。
南米の選手の中にはスラム街(ブラジルのファベーラ、アルゼンチンのビシャ)から脱出するために戦っている選手もいる。今から11年前には、大震災で打ちのめされた人々のことを想いながら戦って世界チャンピオンの座を射止めた日本人女性たちもいた。
西欧や北米、日本のような比較的豊かで開かれた民主的な政治体制の下で育った選手たちは、何よりも「自己実現」のためにプレーすればよいのではないだろうか。
そう、これは「差」ではなく「違い」なのである。
■鬼気迫る決勝での戦いぶり
3位決定戦はたしかに両チームの気持ちがぶつかり合った感動的な試合だったが、アルゼンチン対フランスの決勝戦を見た今となっては、遠い過去のような気がする。長い歴史を背負った両国の戦いはまさに鬼気迫るものだった。
超一流の選手がチームのために献身的にプレーし、そして、リオネル・メッシとキリアン・ムバッペという特別な選手たちがそれぞれ輝いた試合だった。
両チームの監督がメッシやムバッペに守備の負担を免除して戦うことができたのは周囲のレベルが高かったからだし、同時に何もないところからゴールを生み出せるメッシやムバッペがいなかったら、両チーム、とくにアルゼンチンの決勝進出はなかったかもしれない。メキシコ戦でのメッシの先制ゴールは初戦で敗れたアルゼンチンを救ったし、ポーランド戦のムバッペの2ゴールも驚くべきものだった。
その両チームが戦った決勝戦。アンヘル・ディマリアの右サイド起用とか、フランスのディディエ・デシャン監督の驚くような選手交代など、技術的にも戦術的にも語りたいことはいくつもあったが、何よりも両チームのすべての選手の気持ちの強さは並外れていた。
では、両チームの選手たちはいったい何のために戦っていたのだろうか? 「祖国のため」ではなさそうだ。もちろん、自分個人のためではない。
優勝したアルゼンチンの選手たちは「アルゼンチン・サッカーの伝統と誇り」のために戦っていたのではないだろうか?
ショートパスをつないで展開するアルゼンチン・スタイルのサッカーが確立されて世界のサッカーをリードする地位を確立した1920年代から数えて約100年間紡いできたアルゼンチンのサッカー伝統。彼らは、そのために戦っていたのではないだろうか?
■アルゼンチンのサッカーとは何か
では、アルゼンチンのサッカーとは何か?
一つは先ほども述べたようにショートパスをつなぐ攻撃的なスタイルのサッカーだ。ワンタッチバスをつないで次々とスペースに走り込む選手を使って、最後はフリーになったアンヘル・ディマリアが決めた2点目のゴールなどは、まさにその典型のような得点だった(僕は見ていて初優勝した1978年大会でのレネ・ホウセマンのゴールを思い出した)。
同時に、アルゼンチン・サッカーの素晴らしさはその守備にもある。サポーター(インチャ)たちが一斉に「ビエン(よしっ)!」に叫ぶ瞬間だ。
フランスがトップにいるムバッペにパスを入れようとした時に、CBのクリスティアノ・ロメロがガツンと当たって跳ね返したり、ロドリゴ・デパウルが体を入れて相手からボールを奪い取った瞬間に、彼らは一斉に「ビエン!」と叫ぶ。
パスをつなぐ華麗な攻撃と体を張った守備こそがアルゼンチンのサッカーなのだ。そして、ピッチ上の選手たちと多くのサポーターが共通して理解しているのだ。そうしたサポーターの力によってアルゼンチンの伝統を継いだ選手たちが育ち、そして、彼らはそうしたアルゼンチン・サッカーの伝統と誇りを取り戻すために戦い続けたのだ。
何のために戦うのか? 荒廃した祖国や民族のためや、災害で打ちひしがれた人々のためでも、もちろんいい。戦う目的はいくつも考えられる。だが、自国のサッカーの伝統と誇りのために戦えるというのは最も純粋で美しい目的なのではないだろうか?
日本のサッカーも、いつに日にか、日本人に共通して理解されるような、そしてすべての選手がそのために戦うことができるようなスタイルと伝統を築き上げることができるといいのだが……。そして、そういうものを持てる日が来れば、日本は本気でワールドカップの頂点を狙えるようになる。
おやっ、今夜はテレビを見ていただけの僕の話もちょっと熱を帯びてしまったようだ。