小学5年生(10歳)の時に爆心地から約800mの防空壕で被爆した下平作江さん。原爆で母と姉、兄を失い、10年後には後遺症を抱える妹が自ら命を絶った。
「二つの黒焦げの死体と遭遇しました。歯を見たら金歯が一本ありましたので、『あ、これは母だ』。母ちゃん、母ちゃんと手を触れた時、母はパラパラパラと崩れていきました。妹は髪が抜けたり、色んな症状が出て、お腹が腐って、ウジ虫がわいたりするものだから、みんなからいじめられて、とうとう列車に飛び込んで自殺した」(下平さん)
「若い皆さんが、努力をして平和な社会をつくっていく努力をしていただいて、次の世代の人たちにバトンタッチして、平和というバトンを次の世代の人たちにタッチしていただけたらいいなと思っている」そう語りかける下平さんに、咲和さんは「はい」と深く頷いた。
咲和さんは高校を卒業した後も、国内外で被爆者の体験を語り継ぐ活動に取り組んでいる。
「自分自身が誰かの悲しむ顔を見るのが好きじゃなかった。笑顔にしたいという気持ちは多分昔からあったものだったんですけど、それを一番思ったのがおばあちゃんに対してだったのかなって。すごくおばあちゃんの笑顔が大好きだったから、その笑顔を奪う原爆って何なんだろうって思い始めたのかなって。
私自身も小学校の時とかは、目を閉じて耳をふさいで、原爆の話は聞きたくないっていう感じの子だったんですけど。やっぱりおばあちゃんのことを思い浮かべたら、少しずつでも向き合っていきたいという気持ちが芽生えてきて。そこから今があるのかな」(咲和さん)
祖母の被爆体験を後世へ
