4年に一度の祭典、ワールドカップ。この大舞台に立つことを約束された者などいない。メンバー入りを巡る熾烈な争いで、本大会が近づくにつれて序列を覆したケースもある。日本が参戦した過去6大会で、W杯を手繰り寄せた男たちの知られざるストーリー。今回は、目に見える結果を出し続け、FWとしての存在価値を示し、父との約束を守った大久保嘉人に話を訊いた。
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カタール・ワールドカップ(W杯)が刻一刻と近づいているが、史上初のベスト8を狙う日本にとっての最大の課題と言えるのが「誰が点を取るか」だろう。
最終予選のスコアラーを見ると、右ウイングの伊東純也(スタッド・ランス)が4点、FWの大黒柱・大迫勇也(神戸)と左サイドの切り札・三笘薫(ブライトン)が2点、10番の南野拓実(モナコ)、キャプテンの吉田麻也(シャルケ)、若きダイナモ・田中碧(デュッセルドルフ)が1点ずつとなっている。
つまり、日本の場合は2列目が得点することがほとんどで、最前線でゴールを奪えているのは大迫1人ということになる。その大迫も今季は怪我を繰り返し、フル稼働できていない。
8月6日のC大阪戦で約1か月ぶりのリーグ戦先発出場を果たし、復調をアピールしたものの、まだ先々が安泰というわけではない。「1トップ問題」は依然として不透明と言わざるを得ないのだ。
2014年ブラジルW杯の日本も似たような状況に直面していた。2010年南アフリカW杯の後、日本代表の指揮を執ったアルベルト・ザッケローニ監督は当初、前田遼一や李忠成(新潟シンガポール)、ハーフナー・マイク(FCボンボネーラ)を起用。2013年東アジアカップ以降は柿谷曜一朗(名古屋)と大迫の両若手を抜擢した。柿谷は2013年J1で21点、大迫も19点をマークし、勢いに乗っていたのは確かだった。
だが、2014年になると柿谷はスランプに。1860ミュンヘンに赴いた大迫は悪くない出来だったが、未知数の存在だった。2列目に本田圭佑、岡崎慎司、香川真司(シント=トロイデン)らタレントを擁していたザック監督にしてみれば、「確実に点を取ってくれるFWがいればチームは完成形に近づく」という思いは強かったに違いない。
「日本の穴」とも言えるポジションに凄まじい勢いで滑り込もうとしたのが、ゴールを量産していたベテランの大久保嘉人である。
2003年の日韓戦で初キャップを飾って以来、大久保の代表人生は紆余曲折の連続だった。2006年ドイツW杯はあと一歩のところで落選。当時は20代前半で、「まだ次がある」と前向きに捉え、次の南アを本気で狙いに行った。そして2008年の岡田武史監督就任後は常連になり、このままいけば南ア行きは確実と見られたが、2009年1月のヴォルフスブルク移籍で状況が一変した。
新天地では思うように出場機会を得られたわけではなかった。「協会の人に『このままだったらW杯には選ばれない』と言われて、すぐに日本に帰りたくなりました(苦笑)。(監督のフェリックス・)マガトに『環境に慣れれば出れるようになるから、1年くらい我慢しろ』と言われたけど、どうしても南アに行きたかったから半年で神戸に戻る決断をしました」と本人は言う。
神戸時代はそこまでゴールは奪えなかったものの、長年の念願だった南アW杯を射止め、16強入りに貢献したことで、ある程度の達成感を覚えたという。
そんな経緯があっただけに、ブラジルのことはあまり考えていなかった。ザック時代は「代表は規律も多いし、面倒だから、正直、もう行きたくない」と思ったほどだ。
けれども、2013年5月12日に61歳の若さで他界した父・克博さんの「代表になれ」という言葉が、自身の考えをガラリと変えた。
「そもそも僕にとってのW杯は『父親と一緒に見た思い出の大会』。小学生だった頃、94年アメリカW杯でブラジル代表を見ながら『お前、これに出ろ』と言われたのはよく覚えています。自分もロマーリオを好きになったし、本気でワールドカップを目ざすようになった。それで南アに行ったんで、もういいと思っていたんです。
だけど、父親は亡くなる前に『サッカー選手をやっている間はそんなことは言うな』と何度も口にした。そして『代表になれ。空の上から見とうぞ』と書かれた遺書も読みました。となれば、やらないわけにはいかない。その時は川崎移籍1年目でまだJ1で5~6点しか取っていなかったんで、『得点王を取らなアカン』と思った。『ゴールを取り続けたら可能性がある』と信じて戦ったんです」
目の色を変えた大久保の破壊力は抜群で、2013年は26ゴールを奪い、本当に得点王を手中にした。実はこのタイミングで協会の霜田正浩技術委員長(当時)から何度か電話が入り、「ザックと1回話してほしい」と言われたようだが、大久保自身から歩み寄ることはせず、数字で納得させる方法を選んだ。
「1シーズンだけ点を取れる選手はよくいるけど、大事なのは毎年取り続けること。ブラジル大会までまだ半年あるし、ここでペースダウンしたら意味がない。自分を呼ばざるを得ない状況を作り出すしかない」と自らに言い聞かせ、ハイペースで得点を積み重ねた。
迎えた2014年5月12日のメンバー発表。ザック監督は大久保嘉人の名前を呼ぶに至った。
ただ、悔やむべきなのは、川崎で名コンビを組んでいた中村憲剛と揃って代表に招集されなかったこと。それに関しては大久保自身、今も納得がいかないようだ。
「本来、中盤の自分はパスを受けて、はたきながらリズムを作るタイプ。憲剛さんはそれをよく分かっていたから絶妙のボールを出してくれた。でも、ブラジル・ワールドカップの代表には気の利いたパスを出せる選手がヤットさん(遠藤保仁/磐田)くらいしかいなかったんで、正直、やりづらさはありましたね。
しかも、ザックには確立されたサッカースタイルがあって、自分は適応するだけでいっぱいいっぱい。『ボールと逆のサイドバックは1回、タッチラインを踏んでから中に入って来い』という指示が典型的ですけど、FWの自分は彼らと距離感が遠くて合わせにくい。でもそれをやらないと試合に出られない。新参者の難しさを感じましたね」
固定化・パターン化していた戦術に加え、コンディショニングの失敗、W杯経験のない指揮官の不可解采配などが重なり、チームは1分2敗。父との約束を守り、二度目の世界の舞台をつかみ取った大久保自身も悔しい結末を強いられた。
こうしたなかでも「フォワードはクラブでコンスタントに点を取って初めてワールドカップに行ける」という教訓を得たことだけは、大きな価値があったと言っていい。
「そういう選手が今の森保ジャパンにほとんどいないのは、やはり心配ですね。7月のE-1で活躍した町野(修斗/湘南)なんかも可能性のある選手だけど、継続性という意味では弱い。期待できるのは上田綺世(サークル・ブルージュ)かな。彼は身体能力が高く、身体を張れるし、シュートのバリエーションが豊富。しかもJでコンスタントに結果を残していた。今はベルギーで少し苦労しているかもしれないけど、面白い存在だと思います」
ゴールラッシュで周囲の評価を覆した8年前の大久保のように、見る者を驚かす点取り屋がここから出現するのか否か。ラスト3か月のFW陣の猛アピールを楽しみに待ちたい。
取材・文●元川悦子(フリーライター)
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